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活字をこよなく愛する、建築系大学生の日常と考察。

「新海誠の私性」と「物語の普遍性」 -『君の名は。』試論-

 

夜空を横切っていくものの軌跡、電車の窓の先に広がる風景、つながらない携帯電話。『君の名は。』には、新海誠の従来の作品に共通するモチーフが溢れている。一方で、見れば誰もが気がつくように、これらのモチーフの隙間には彼のこれまでの作品とは決定的に異なる雰囲気が宿っている。

 

これは、どこから生じる感覚なのか。結論を先取りしていうと、このアンビバレントな感覚を生じさせる源には、「新海誠の私性」と「物語の普遍性」との間におけるせめぎ合いがある。

 

周知のように、新海誠作品には時間的・空間的な切断という主題が繰り返し描かれてきた。これはたとえば、『ほしのこえ』における遅延するメッセージ、『秒速5センチメートル』のふたりの間を通り過ぎる電車などに象徴的にあらわれている。『君の名は。』でも、極端なまでに対比的に描かれる都会と田舎の表現、主人公たちの間に横たわる3年のズレに、同様の主題が見て取れる。

 

しかし、新海誠の主題の本質は、切断そのものではなく、切断による「日常の再発見」である。どういうことか。新海誠は、劇中に意図的な切断をもたらすことで、私たちの切断された他者・外部へと向かう想像力を喚起し、その視線から再発見される日常の美しさを描こうとしているのだ。このことは、「汚れて見える路地裏でも、薄暗い駅舎でも、風景が、いちばん身近にある“救い”だと僕は思う。だから、つらいこともあるけど、景色の一部として自分を見れば、きっとあなたは美しいはずなんだ」(『ダ・ウィンチ』2007年3月号、メディアファクトリーという語りに明確に表れている。

 

また、新海誠はインタビューの中で、アニメーションを作り始めた動機について次のように語っている。

「会社は楽しかったんですけど、ゲーム会社でゲームを作っているだけだと、そこに収まりきらない気持ちみたいなものがあったんですよね。会社は会社でファンタジーRPGとかやっていて楽しいんだけど、でも自分たちの日常って電車乗ったり、自動販売機で何か買ったりとか、Suicaをピッとやったりが日常じゃないですか。そこの部分が全然仕事から抜けちゃってるなという気分があって、そこで何か作りたいという気持ちがあって、思い切って会社を辞めて…」新海誠監督×神木隆之介×上白石萌音君の名は。」公開記念特番)

この「日常」の美しさを描こうとする姿勢は、初期の作品から通底する一貫したものであることが伺える。

 

この「日常の再発見」こそが、新海誠の私性であり、特殊性・独自性である。彼の代名詞ともいえる圧倒的な背景美術や技術、しばしば用いられるMV的な演出、電車や携帯電話などのモチーフは、この「再発見される日常の美しさ」の表現を支えている。

 

しかし、この私性は私性であるがゆえに、万人に広く正確に届くものになりにくいという危険性を孕んでいる。新海誠自身も、『秒速5センチメートル』に対する観客の反応を通してこの危険性を自覚したという*1

 

この反省から、彼は物語の構造の構築に重きをおくようになる。この姿勢は、小説『言の葉の庭』において、劇場版では詳しく描かれなかった人物の視点からも物語を描き、奥行きや厚みのある物語を志向していることに既に表れている。そして、『君の名は。』についても「今までは1カット1カット、撮影段階で自分の手を入れないと気が済まないところがあったんです。でも今作では、ビジュアル面はスタッフにほとんどの部分を任せています。僕はそれよりも、目に見えない物語の構造そのものや編集での時間軸のコントロールに注力しました」(『君の名は。』劇場用パンフレット、「君の名は。」制作委員会)と述べており、物語の普遍性を意識していることが伺える。

 

この重心の変化こそが、冒頭で述べた異なる雰囲気を生じさせた要因である。『君の名は。』の前半部に多く見られたコミカルなシーンは、これまでの作品には見られなかった要素であり*2、最後まで結末の読めないサスペンスフルな展開は、比較的予定調和的であったこれまでの新海誠作品のストーリーラインとは一線を画している。

 

つまり、新海誠は日常に対して向けられる私性を、物語の普遍性な構造へと接続させることで、新たな境地へと繰り出したのだ。

 

「いつか」「どこか」へと脱出するのではなく、「いま」「ここ」に安易に回帰するのでもなく、「いつか」「どこか」への視線をもって「いま」「ここ」を再発見すること。
この新海誠作品に通底する姿勢は、そのまま彼の製作態度へと敷衍することができる。
ベタに物語の普遍性を追い求めるのではなく、自身の私性に閉じこもるのでもなく、物語の普遍性への視線をもって自らの私性の可能性を再発見すること。

 

君の名は。』は、そんな自己革新を続けるクリエイター「新海誠の私性」と「物語の普遍性」の境界面に生じた、彼の新境地となる作品である。

 

 

*1:「『秒速5センチメートル』という作品を作って、ある程度の評価や支持もいただいたんですが、自分の思いとはずいぶん違う伝わり方になってしまったという感覚があったんです。自分ではハッピーエンド/バッドエンドという考え方をしたことはなかったんですが、『秒速~』は多くのお客さんにバッドエンドの物語と捉えられてしまったところがあって」(『君の名は。』劇場用パンフレット、「君の名は。」制作委員会)

*2:新海誠作品で劇場に笑い声が響くことの驚きと言ったら!

五百羅漢図を背にはしゃいでポーズを

 

あけましておめでとうございます。

今年も箱根観戦と共に新年が始まりました。
ゆったりとわくわくする年にしたいです。
 
 
昨年末に、村上隆展(森美術館)、フランク・ゲーリー展(21_21)、PLOT展(GA gallery)に行ってきました。
 
 
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村上隆五百羅漢図。圧巻です。
 
どこか気持ち悪いけれどすごいものに出会ってしまった、というのが正直な感想。
強烈な違和感が身体を通り過ぎていくような体験でした。
 
 
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岡本太郎ピカソに似たような感触があって、圧力というか執着力が作品に充満している感じ。 
 
 
村上隆の、芸術を「世界で唯一の自分を発見し、その核心を歴史と相対化させつつ、発表すること」という語り・思想は磯崎新に、
200人を超える大量のスタッフを指揮して全長100mを超える巨大絵画を短時間で完成させる方法論はフランク・ゲーリーに、それぞれ重なって見えました。
 
前者からは「歴史(あるいは日本的なもの)をどう再解釈・翻訳するか」、後者からは「巨大集団と先端技術をどうコントロールし、市場に展開するか」という問が浮かび上がってきます。
 
これらは一連の新国立競技場を巡る問題も含み、現代建築界が、そして現代社会がぶちあたっている大きな“壁”ではないでしょうか。
 
 
 
PLOT展では、「建築家のやっていることってみんな大して変わらないよね」と隣でつぶやかれた声が強烈に印象に残りました。
 
そのつぶやきに半分くらい納得してしまいながらも、隈研吾の「ウレタンによる脱フレーム」、日建設計の「批判的分析と工学的ドライブ」には、その“壁“との格闘が垣間見えた気がしました。
 

 
 
 
2015年、世間を騒がせた、一連の新国立競技場問題。
ザハ案が受け入れられず、隈案が受け入れられた理由。
 
フランク・ゲーリー展の感想に頻出する、「印象が変わった(好き勝手かたちを作っているわけではないのか)」という声。
 
「PLOT展」という企画が成立する意味。
 
 
 

語られないものは組み込まれない。何をやろうとしているのかわからないから、評価できない。「当事者によって語られない」こと、それは現代の世界において大きなマイナスです。それが悪いという意味ではなくて、事実としてそうなってしまっている

語らなければ、伝わらない。のか? - チェコ好きの日記

 

 
 
村上隆展、フランク・ゲーリー展、PLOT展には、形は異なっていましたが、全てに過程・プロセスの展示がありました。
 
饒舌に語らなければ、伝わらないのか?
一方で、どうしても語りえないものとは?
 
五百羅漢図を背にはしゃいでポーズを取っていた女の子たちに、希望の光が見えるかどうか。
2016年、じっくりと考えていきたいです。
 
 
 
 
 
建築家 フランク・ゲーリー展 "I Have an Idea"
 
PLOT 設計のプロセス 展