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活字をこよなく愛する、建築系大学生の日常と考察。

五百羅漢図を背にはしゃいでポーズを

 

あけましておめでとうございます。

今年も箱根観戦と共に新年が始まりました。
ゆったりとわくわくする年にしたいです。
 
 
昨年末に、村上隆展(森美術館)、フランク・ゲーリー展(21_21)、PLOT展(GA gallery)に行ってきました。
 
 
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村上隆五百羅漢図。圧巻です。
 
どこか気持ち悪いけれどすごいものに出会ってしまった、というのが正直な感想。
強烈な違和感が身体を通り過ぎていくような体験でした。
 
 
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岡本太郎ピカソに似たような感触があって、圧力というか執着力が作品に充満している感じ。 
 
 
村上隆の、芸術を「世界で唯一の自分を発見し、その核心を歴史と相対化させつつ、発表すること」という語り・思想は磯崎新に、
200人を超える大量のスタッフを指揮して全長100mを超える巨大絵画を短時間で完成させる方法論はフランク・ゲーリーに、それぞれ重なって見えました。
 
前者からは「歴史(あるいは日本的なもの)をどう再解釈・翻訳するか」、後者からは「巨大集団と先端技術をどうコントロールし、市場に展開するか」という問が浮かび上がってきます。
 
これらは一連の新国立競技場を巡る問題も含み、現代建築界が、そして現代社会がぶちあたっている大きな“壁”ではないでしょうか。
 
 
 
PLOT展では、「建築家のやっていることってみんな大して変わらないよね」と隣でつぶやかれた声が強烈に印象に残りました。
 
そのつぶやきに半分くらい納得してしまいながらも、隈研吾の「ウレタンによる脱フレーム」、日建設計の「批判的分析と工学的ドライブ」には、その“壁“との格闘が垣間見えた気がしました。
 

 
 
 
2015年、世間を騒がせた、一連の新国立競技場問題。
ザハ案が受け入れられず、隈案が受け入れられた理由。
 
フランク・ゲーリー展の感想に頻出する、「印象が変わった(好き勝手かたちを作っているわけではないのか)」という声。
 
「PLOT展」という企画が成立する意味。
 
 
 

語られないものは組み込まれない。何をやろうとしているのかわからないから、評価できない。「当事者によって語られない」こと、それは現代の世界において大きなマイナスです。それが悪いという意味ではなくて、事実としてそうなってしまっている

語らなければ、伝わらない。のか? - チェコ好きの日記

 

 
 
村上隆展、フランク・ゲーリー展、PLOT展には、形は異なっていましたが、全てに過程・プロセスの展示がありました。
 
饒舌に語らなければ、伝わらないのか?
一方で、どうしても語りえないものとは?
 
五百羅漢図を背にはしゃいでポーズを取っていた女の子たちに、希望の光が見えるかどうか。
2016年、じっくりと考えていきたいです。
 
 
 
 
 
建築家 フランク・ゲーリー展 "I Have an Idea"
 
PLOT 設計のプロセス 展