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活字をこよなく愛する、建築系大学生の日常と考察。

「建築」としてそうであること

 

 

1 「変な建物」ということば

今年の3月、金沢21世紀美術館にて開催されていた「ジャパン・アーキテクツ1945–2010」を見に行った。同美術館と、ポンピドゥー・センター パリ国立近代美術館の共同主催である、日本初公開の貴重な資料を含む約80人の建築家のプロジェクトが一堂に会する特別展である。

 

会場は、展示されている模型を熱心に覗き込む、建築学生あるいは建築関係者であろう人たちで賑わっていた。一方で、模型を横目に「世の中にはこんなに変な建物がたくさんあるんだねえ」と話をしながらすーっと通り過ぎていく、建築関係者ではないと思われる来館者の姿も多くあった。ひとつひとつの模型をじっくりじっくり見つめる人の隣で、興味なさそうにつぶやかれる「変な建物」ということばに、両者のズレを感じたことをよく覚えている。

 

このようなズレが生じるのは、なにも展覧会に限った話ではない。実際の建築物でも同じような現象が起きている。「デザイン的には格好いいが使いにくい住宅」「建築が主張しすぎで作品鑑賞には向いていない美術館」などと評される建築がそうだ。ここでも、一般の利用者と建築家との間にズレが見られる。

 

 

 2 一般の利用者と建築家の違い

日本を代表する建築家のひとりである青木淳は、『新建築』2015年6月号内の月評において「どんな建築でも、一般の利用者と建築家では見えているものが違う」と述べている(青木淳 2015, p.226)。彼はこの月評の中で「静岡県草薙総合運動場体育館」(Fig. 1)と「ミュウミュウ 青山店」(Fig. 2)について、一般の利用者からの視点と建築の専門家からの視点で語っている。以下にそれらの一部を引用して示す。

 

静岡県草薙総合運動場体育館の前で、中を覗き込んでいたら、自転車に乗った近所のおじさんが話しかけてきた。「いい体育館でしょう。中に入るとねえ、木の匂いがいっぱいするんですよー。」/満面の笑みを浮かべたその自慢顔に、これこそ公共建築の理想だなあ、と思った。「かっこいい」でも、「立派」でも、「使いやすい」でもなく、「いい匂い」。ここにいるだけで、いい感じがする。

 

静岡県草薙総合運動場体育館は、建築の文脈で見れば、構造形式そのものがストレートに意匠になっていることに、そのすばらしさがある。列柱があって、その上に免震装置が乗って、水平スリットが生まれる。そこにスラストを負担する鉄筋コンクリートのリング梁が乗り、それと大屋根鉄骨トラスの間に、スギ集成材の円環状に配置された列柱が狭まる。「建築」への信頼に溢れた、衒いのない作品である。

 

ミュウミュウ 青山店は、建築の専門家なら、まず構成の妙を見るだろう。閉じた箱をちょっと開いてみせる、そのジェスチャーによって全体を統一された建築、というように。(中略)しかし、道行く人は、そんな分析をしない。五感で感じて、気に入るか入らないかだけのことだろう。/デザインの文脈で見れば、手を施すところと施さないところの区分けが画期的だ。エクステリアには手をつけない。つまりエクステリアを人びとの意識から消す。普通は逆で、エクステリアに意識が行くようにデザインする。つまり、これも一般の人には伝わらないことだろう。

 

 

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Fig.1 静岡県草薙総合運動場体育館

 

 

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 Fig.2 ミュウミュウ 青山店

 

 

彼は「静岡県草薙総合運動場体育館」の利用者からの視点を「匂い」から語り、建築の専門家からの視点を「構造形式」「意匠」から語る。同様に、「ミュウミュウ 青山店」では前者の視点を「五感」だと述べ、後者の視点を「構成」「デザインの文脈」から語る。青木はこれらの視点を大きく分類し、利用者の視点を機能性、シンボル性、創発性、建築家の視点を「建築」としての完成度、新奇性、批評性と述べている(青木淳 2015, p.226)。

 

先における「一般の利用者と建築家の間のズレ」は、このような両者の視点の違いから端を発したものであろう。建築家は、建築の新奇性や批評性を追い求めるあまり、実際にその建築を使う人の視点を欠いてはいないだろうか。本来これらふたつの視点は表裏一体の関係である。利用者がいなければ建築は成立しないため、建築家の独断はありえない。ふたつの視点の関係をどう読み解くか、どう形にするか、それが建築家の創意工夫のしどころである。建築の独自性や心地よさ、「いい匂い」の源は、そこから生まれてくるもののはずだ。

 

 

 3 「建築」としてそうであること

さらに、「一般の利用者と建築家の間のズレ」は、「一般の人と建築学生のズレ」にもつながっているように思う。莫大な情報がデータベース化され、いつでもどこでも「検索」という行為が可能になった今日では、データベースによる「お手軽」な「すぐれた設計」が可能になった(隈研吾 2010, p.6)。その弊害として、今の建築学生は、新奇性や批評性を追い求めるあまり、一般の利用者からの視点を欠いてはいないだろうか。極めて図式的で建築の面白さばかりを求めた建築に感化され、キャッチ―なコンセプトに惑わされ、実際に「モノ」として存在する建築と向き合っていないことはないだろうか。

 

最終的に「モノ」として出来上がる建築は、その存在が全てである。新奇性や批評性はあくまで副次的なものであり、実際にその建築を使う人たちにことばで説明をすることはできない。このとても基本的な認識を欠いた建築を、青木は批判しようとしているように思える。

 

かつて丹下健三は「建築家は現実の矛盾―民衆と建築のからみあいのなかにおける矛盾―その矛盾の中に欝積して潜在している民衆のエネルギーに、具体的なイメージを提示しようとする態度と問題意識をもって、創造にたちむかうことによって、民衆にむすびつくことができる」(丹下健三 1956, p.23)と述べた。これを受け、青木は「一般の人に見えていることと違っても、「建築」としてそうであることで、一般の人の無意識に伝わることがある。(中略)さて、以来60年経った今も、その議論は有効なのか」(青木淳 2015, p.226)と、読者に問を投げかける。実際にその建築を使う人の視点を常に忘れることなく、それらの視点と建築家(建築学生)としての視点というふたつの異なるものの関係をどう読み解くか、どう形にするか。これが、「建築」としてそうであるために、最も必要なことではないだろうか。

 

 

 

 

参考文献

青木淳(2015)「月評」、『新建築』、2015年6月号、新建築社、p.226

隈研吾(2010)「本物の闘いだけが他人を興奮させる」、『卒業設計日本一決定戦OFFICIAL BOOK せんだいデザインリーグ2010』、建築資料研究所、pp.6-7

丹下健三(1956)「建築設計家として民衆をどう把握するか おぼえがき」、『建築文化』、119号、彰国社、pp.20-23

 

 

 

 

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